空飛び猫の戯れ言

お菓子作り、メンタル闘病記、お気に入り動画など。空飛び猫の、ありのままの日記です。

世界の母。

(昔の下書き記事を再UPしました)

 

マザーテレサについて」も、人に宛てた手紙を修正してここに起こしておきます。

いつか「私はマザーテレサが好き、マザーから私を愛してくれるような母性を感じる」と書いたことがありました。
私は10代で不登校、引きこもりの後二十歳で閉鎖病棟に入院したので、閉鎖病棟で社会について学んだ・・・というとおかしいかもしれないけれど、そういった側面は大いにあると思います。みな精神的にも、物理的にも、金銭的にも、人からの愛の面でも余裕がない中で、譲り合い、いたわり合い、慰め合い、励まし合ってやっていました。職員からさげすまれ、世間から恐れられても・・・。それが私の入院した頃の某精神病院でした。その中で貧しさは金銭的なものだけではないこと、愛に貧しかった人ほど人に多くの愛を与える傾向にあることなどを体験から体で知っていき、それを受け取ったときは、体が震えるほど感激し、いつも涙がこぼれました。
今日は私の好きな本、「マザー・テレサ 愛と祈りのことば」から私が共感したマザーの名言を集めて送ります。私の言いたいことが、少しでも伝わればいいのですが・・・。

「貧しい人々は偉大です!
貧しい人々はすばらしい人々です!
貧しい人々は非常に寛大な心を持っています!
彼らは、私たちが与える以上のものを、
私たちに与えてくれるのです。」

「持ち物が少なければ少ないほど、
多く与えることができます。
矛盾としか思えないでしょう。
でもこれが愛の論理なのですよ。」

「ドアベルが鳴りました(夜の十時頃だったでしょうか)。私がドアを開けると、一人の男の人が寒さに震えて立っていました。
マザー・テレサ、あなたが大きな賞をおいただきになったと聞いた時、私も僅かですが何か差し上げたいと思い立ちました。これが今日私がもらったすべてです。何卒、お受け取りください」
それは、たしかに僅かでした。でも、彼の持ちものすべてだったのです。
それは、私にとってノーベル賞以上の感動を与えてくれました。」

「人々は時に、食べ物以外のもので飢えていることがあるものです。
私たちの子どもたち、夫、妻は食物、衣服、住む所に飢えてはいないでしょう。でも、彼らが一人っきりで寂しく、見捨てられ、無視されている結果、愛情に飢えていないとは断言できないのです。こういう貧しさも存在しているのです。」

「貧しい人々は、私たちのお情けを必要としていません。彼らが求めているのは、私たちの愛と優しさなのです。」

「何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみでなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです。」

「貧しさにはいろいろあります。経済的にはうまくいっているように思われる国にさえも、奥深いところに隠された貧しさがあるのです。それは見捨てられた人々や苦しんでいる人々が抱えている極めて強烈な淋しさです。」

私は入院した当初、家族に騙され、裏切られた、と強く感じていました。(任意入院→医療保護入院に切り替えられた経験などから。)
ショックで何も食べられなくなり、寝ているばかりで、2週間が過ぎ、体重は8キロ減って42キロになりました。
もう誰も信じない。信じれば自分だけが傷付くから。そう強く思っていました。でも入院友達は、成人式にも出れない私に温かく接してくれました。指輪やぬいぐるみのプレゼント、絵のプレゼント。そこにはただただ愛があって、決して慰めではなくて、私はそれらのプレゼントを、今も宝物として大事に持っています。
今思えば、入院費を払ってもらえている時点で私は家族に愛されていたし(入院費を自分で払っていた入院友は亡くなりました。Kちゃんと言う子です)、閉鎖病棟に娘を入れる両親の苦しみ、そんなことには考えも及びませんでした。
当時は言えなかったけれど、今は、私はあの時閉鎖病棟に入ってよかったんだ、と言えます。私は本当に死んでいたかもしれないからです。自分がどれだけ危険なことをしているのか、よく理解できていませんでした。
ただただ、辛かった。喉元過ぎれば、とはよく言うけれど、今だってまた隔離や某精神病院に戻されて同じことが言えるか、と問われれば自信は全くありません。
今自由だから、愛に恵まれているから、いろんなことが少しずつ理解できてきたから、言えることなんだと思います。
私の病気は確かに、よくなったのかもしれませんね。
でも、私はお兄さんの「嫌になったらいつでも出られるから」という言葉を固く信じていました。そして出られない、と分かったとき、お兄さんに電話しました。お父さんに、入院形態を切り替えるよう掛け合ってくれた?と。お兄さんは「話してないよ、だって猫ちゃん具合悪そうだったから。」と。それで、2週間寝込みました。
愛に飢えていたと、はっきり言えると思います。愛は十分にあったけれど、私が受け取れなかった。
お兄さんは今でも、愛に飢えるということを知らないと思います。飢えている人、貧しい人がその中からくれるプレゼントやカードが、どれほどうれしいものかも。
愛と時間は十分にここにあります。あっても、それが伝わらなければ人は愛に飢えて瀕死になってしまうこともあると思うのです。

長くなったけれど、そんなことを思いました。