空飛び猫の戯れ言

お菓子作り、メンタル闘病記、お気に入り動画など。空飛び猫の、ありのままの日記です。

「マイケル神格化」、の風潮に抱く危機感。

また今年もやって来ました。
1年に1度は来るという私のマイケル(・ジャクソン)ブームが。



毎日のようにYouTubeで曲を見、聞きます。
そしてプライベートビデオや、インタビューなども漁りました。

コメント欄を見て、最初に覚えたのが、違和感。次が恐怖心でした。



マイケルが、神格化されている。「マイケル生存説」まで出る始末。
一色の意見しかない。これこそ私が恐怖する事態です。

ひとり、「マイケルは変人だった」、と書き込んでいた人を見つけた時、私はホッとしていました。(大ファンでありますが、マイケルが変わり者だったことは事実だと思います。愛しい変わり者です。また、マイケルが尋常性白斑だったとしても、なぜ「実子」達が生まれた時から完全な白い肌をしているか、という疑問は残ります。しかしマイケルは育ての親であることは事実でしょう、なので、肌の色、人種、血の繋がりに日本ほどこだわらないアメリカで受け入れられることは不思議に思いませんし、私ももちろん、肌の色でなく行いで人を見るべきだと信じています。)
しかし、その意見すら「精神患ってますか?」(←精神病患者に対する立派な差別発言です)と切り捨てられていました。



わからない。また私のいつも感じる世界です。
なぜ、こうも意見が片方にだけ傾いてしまうのか?
今やマイケルのことを批判するものは神に罰される、程の勢いに感じます。

こうなると怖いのが手のひら返し。
また同じことの繰り返しです。
どうして学ばないのか・・・。学べないのか?学ぶつもりも、ないのだろうか。

私は世論とずれる事を少しも恐れません。
というより、自分の素直な思いが、生まれつき常にずれているんです。もう慣れました。
マイケルと同じ時期に生きていた人なら誰だって、あのバッシング、あの風潮、あの世論を知っています。
心のどこかで、良心が訴えるはずです。
自分もマイケルを差別していたな、と。
それならまず、謝罪があるのが流れだと思うのです。
マイケル・ジャクソンに対する謝罪の言葉が。
私はこのブログで謝りました。今でも、死んだあともしもマイケルに会えるなら、真っ先に謝罪したいと思い続けています。「私はあなたを誤解していました。その1票の重さを知っているつもりでしたが、間違いを犯しました。本当にごめんなさい。」と。
それが・・・罪悪感→謝罪→賞賛という、この真ん中のプロセスが抜けてしまう。
だから必要以上にメディアだけを責めたり(メディアは売れる物を書く物です。買う人がいるから書くんだ、大衆が、その一員である自分自身も含め悪いんだというこの一言を何故言ってはいけないのでしょうか?)、マイケルを絶賛したりするのだと思うのです。
報道は偏向するものです。偏向しない報道なんてあるのか?と思うほど。
マイケルは人間不信で、インタビューを受けないことからマスコミとの関係が悪化していったとこの本で知りました。
マスコミしか批判できなかったマイケルはさぞ苦しかったことでしょう。
ゴシップ雑誌を買う大衆=マイケルのお客様(もしくは真実を知りたいファン)でもあるのだから。
もちろんずっとマイケルを信じて支持していたファンの方もいらっしゃるのでしょうが。


もちろんマイケルだって人間だから、ミスもしたと思います。間違いも犯したと思います。
でもそれは、私達ではなくそれこそ神が裁けばいいことだと思いませんか・・・?



マイケルの作品も死後評価を伸ばし、売り上げもあり、ということは、そこに莫大な金がある、ということです。
また悪魔のような、ハイエナのような、なんと表現していいかはわかりませんが、そういう存在に、マイケルの愛しい、愛していた人達が群がられるのでは?
これが憶測で終わることを祈ります。



疑問に対する糸口をつかみたくて、辿り着いたのが本でした。
西寺郷太さん著、「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書」。
見る間に時間は過ぎ、本は付箋だらけに。



泣きました。泣きますよ。
だって真実は、勝ったんだもの。愛が勝った。読み終えた時、そう思ったんです。
すべてをUPするのは手間がかかり過ぎます。
それよりもなによりも、権利というものを重視したい。
西寺郷太さんがたくさんの手間、愛、受けた差別、勇気、ときめき、そんなものを詰め込んだ本です。
興味のある方は是非買って読みましょう。



これだけは引用してもいいんじゃないか、と思ったものを引用します。
マイケルの追悼式でアル・シャープトン師が話したというスピーチです。(西寺郷太さん訳)

「今日は”愛することとはどういうことか”を我々に教えてくれた、ひとりの男の人生を祝福するために、沢山の人々が愛のヴィジョンを持って世界中から集まってきました。

 どうして、彼が亡くなったことでここまで感情があふれ出してくるんだろうと、その理由が自分でもわからない人達がいるかもしれません。その理由を知るためには、まず、マイケルが歩いてきた長い旅路を理解しなければなりません。
 黒人で、インディアナ州ゲイリーで労働者階級の父親と母親、そして9人の子供達。彼らには「夢」しかありませんでした。その頃、誰ひとりそんな夢が叶うだなんて信じた人はいなかった。でも彼はあきらめなかった。マイケルは、最後まで絶対に自分の夢をあきらめない男でした。

 私がはじめてマイケルに会ったのは、1970年頃、イリノイ州シカゴでのことです。ジェシー・ジャクソンの家族の尽力でブラック・エキスポがはじめて開催され、私はその会場で彼らに会いました。そのときのまだ可愛らしい少年時代から今日まで、マイケルは絶対に夢をあきらめなかった。そして、マイケルがその夢をあきらめなかったからこそ、世界中の文化に変化が起こったのです。

 マイケルがデビューした頃存在したのは、今とはまったく違う世界でした。そんな中でも、マイケルはあきらめなかった。
 彼は限界を受け入れず、人々が勝手に決めつける境界線を拒み、突き進みました。彼こそが、今、当たり前のようにここにある音楽の世界を作り上げたのです。
 あの片方だけの白い手袋と、短いズボンで、彼は人種の壁を突き破りました。彼のおかげで、我々黒人のヴィデオが流され、黒人が雑誌の表紙を飾ることさえ可能になったのです。これはマイケルがもたらしてくれた恩恵なんです。
 黒人と白人、そしてアジア人と中南米人を彼が一緒にしてくれたのです。

 マイケルの音楽と映像によって、それまで人種間の差異を感じ、人種差別が当然だと思いこまされていた人々が、ひとつのものを好きになれる喜びを知ったのです。その方がずっと心地よいことだと、彼が教えてくれたのです。そして、彼が教えてくれた”心地よさ”こそが世界を変えたのです。マイケルから”心地よさ”を教わった子供達は、日本人でも、ガーナ人でも、フランス人でも・・・、もしくはアイオワ州ペンシルバニア州の出身であっても、人種の違いになんの違和感もなく付き合いはじめました。
 そのうちにだんだんテレビで人気司会者のオプラを見ることも、タイガー・ウッズのゴルフを見ることも、当たり前のことになってきたんです。≪スリラー≫の頃、10代だったマイケルのファンもいまや40代にまで成長し、彼らこそが、選挙で有色人種のアメリカ大統領を選ぶことになんとも思わなくなった世代なのです。

 なにもかもマイケルがいたから、なんです。マイケルが進んでくれたから、我々はお互いを愛することが出来ました。このことをみんなに伝えたいんです。マイケルが、みんなが団結することを教えてくれました。なんだかんだと因縁をつけ、邪魔をするのが好きでたまらない人々もいます。でも、私たちをはじめ、世界中で何百万人という人達が、これからもどんどんマイケルが教えてくれたメッセージを支持することでしょう。どうでもいいくだらないことではなくて、マイケルが伝えようとしていた愛のメッセージを支持することでしょう。

 もしあなたが急な山を登ったとすれば、膝に傷がつくこともあるでしょう。ときどきは肌も擦り剥きますよね。でも、そんな傷にばかり目を向けないで、その旅路そのものに目を凝らしてほしいのです。マイケルは皮肉屋や疑い深い連中、悲観論者達の攻撃から逃れ、頂点を目指し登り続けました。ノック・ダウンさせられたこともありましたが、いつだって立ち上がりました。追い出されても、いつだって帰ってきました。のけ者にされても、いつも帰ってきました。
 マイケルは絶対にあきらめなかった。マイケルは絶対にあきらめなかった。もう一度言います。マイケルは絶対にあきらめなかった・・・。

 私は感謝の言葉を述べたいのです。母親のミセス・ジャクソンさん、そして父親のジョー・ジャクソンさん、そしてマイケルの兄弟、姉妹のみなさん、愛と希望を我々に教えてくれたマイケルを、あなた方が与えてくれたことを感謝しています。我々は知っているんです。マイケルが抱いた夢は同時に、あなた方家族全員の夢でもあったんですよね・・・。だからこそ、ジャクソン家のみなさんに感謝したいのです。

 マイケルの3人の子供達にも教えてあげたいんです。君たちのお父さんは決して変わった人ではありません。あなた方のお父さんが闘わなければいけなかったものごと、それこそが奇妙なことだったんです。彼はいつも闘いました。いつだっていろんな方法で、我々のためにも闘ってくれました。

 ミセス・ジャクソンさん、今日はマイケルにさよならを言いに来た人達もいるかもしれません。でも私は、彼に”ありがとう”と言いに来ました。マイケル、君が決して立ち止まらなかったことに感謝しています。君が、一度もあきらめなかったことに感謝しています。境界線を打ち破ってくれたことに感謝しています。バリアを壊してくれたことに感謝しています。我々に希望を与えてくれたことに感謝しています。ありがとう、マイケル。ありがとう、マイケル。マイケル・・・本当にありがとう」



私は以後、ゴシップ雑誌を一切買いません。
ゴシップの書かれたサイトにアクセスしません。(宣伝広告費で得をする人がいるため)
デマを拡散するリツイートも、見ることすらしたくありません。



一票のつもりでも、気楽な行動が、何百何千何万何十万何百万・・・と集まれば、どんなに強いひとりの人をも殺す力になってしまう。
世論は人を殺します。私はそう思います。

マイケルを殺したのは、「マスゴミだけ」ではなく世論、風潮でもあると、私は考えています。
マスコミが扇動したのか?世論が求めたのか?
どちらが先なのかはわかりませんが、卵が先か鶏が先かのような疑問にも思えます。
何にしろマスコミだけのせいにするのは卑怯です。
マイケルを殺した、と死後当事者を裁こうとするのも、ゆがんだ正義感のような気がしています。
マイケルはもう死んでしまったんだ。
でも今も被害に遭っている人はたくさんいます(著名人、有名人)。
マイケルの事を思うなら、構造に目を向けるべきではないのか?



私は今日から行いを改めることを決めました。
強制はしませんが、あなたも共感してくれたら、そして今日からそうしてくれたら、
それは私にとって最高のクリスマスプレゼントです。