空飛び猫の戯れ言

お菓子作り、メンタル闘病記、お気に入り動画など。空飛び猫の、ありのままの日記です。

好きな作家、好きな描写。

今日ぱらぱらっと読み返した、大好きな作家ジェリー・スピネッリの作品「クレージー・マギーの伝説」のなかに胸を打つ描写があったので書き写したいと思います。



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それは、八月の暑い日のことだった。
あまり暑くて、長いあいだじっと空き地に立っていると、ガラスの破片や金属片に反射した太陽の熱で、皮膚が焼けこげてしまいそうだった。
あまり暑くて、ポケットに入れたキャンディが、二時ごろにはどろどろになった。
あまり暑くて、犬が舌を地面までたらして歩いていた。
あまり暑くて、チェスナッツ・アンド・グリーンの消火栓からは、水がまるでナイアガラの滝のごとく、どっとあふれ出ていた。(思いやりのある人が、栓をこじあけたのだろう。)
マギーとほかのいつものメンバーが空地にやってくると、チェスナッツ・アンド・グリーンの交差点は、地下パーティの会場とプールにさま変わりしていた。
ラジオがガンガン鳴りひびき、人々は大声でさわいでいた。レモネードを売る声。つまようじのついたクール・エードの氷を売る声。からだ。素肌。いろいろな色。水。光。てかてかした輝き。あたたかさ。すずしさ。湿り気。さけび声。幸福感。
年齢が低ければ低いほど、着ているものが少ない。おとなたちは歩道にしゃがんで、素足を排水溝の水の中につっこんでいた。十代の若者たちは水着やジーパンを切ったショートパンツ一枚になり、それより小さい子たちは、シャツ一枚。もっと小さい子たちは、丸裸だった。


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感激しました。なにに?
さし絵も写真も動画もなく、冬の今でも文章から暑さがしっかりと伝わってくること。そしてなによりも、そこにいる人々への作者からの愛があること。
なんでもない景色を、何よりその中にいる人々を愛しているのがわかります。「耳をすませば」を監督した近藤喜文さんの画集「ふと振り返ると」と近いものを感じる。どこにでもある街、ありきたりな日常。でもそれは、筆者にとっては人々の息づかいや小さな幸福でまぶしく輝いて見える。
このワンシーンの舞台は、隣り合った地区でも黒人と白人がはっきりと住み分けられていた時代のアメリカの、黒人の地区イーストエンドです。スピネッリの作品では、いつも世に疎ましがられている者が主役になれる。引きこもりの老女。孤独な老人。いじめられっ子。親も住む家も持たないこの作品の主人公マギーも。
この作品ではいつも白人に差別される側だった黒人ばかりが住む地区に白人の少年マギーがたったひとり入り込むことで、今度は黒人側が差別する側に回るという逆転現象が起こるのも面白い。
「ラジオが」から「幸福感。」までが特に好きです。単語の羅列なのに、すごく伝わってくる。

最初に読んだときには気づかなかったことに2度目では気づき、3度目ではまた読み落としていた素晴らしい部分を発見する。
そんな風に何度も読み返したくなる本が素晴らしい本だと思うし、内容が素晴らしくて好きになった本だから何度も読み返すのかもしれません。