空飛び猫の戯れ言

お菓子作り、メンタル闘病記、お気に入り動画など。空飛び猫の、ありのままの日記です。

日陰に囲まれた者にも、太陽は変わらず射している。

年齢を重ねるごとに、その価値がわかっていくような映画です。



つい先ほどまでBS2で放送していたギルバート・グレイプを見ました。途中からです。
素晴らしかった。
自殺した父、知的障害を持つ弟、過食症の母。ギルバートはそんな自分の家族をみっともないと思っている。それでも家族はギルバートなしでは生きられず、ギルバートは家族を見殺しにできない。自分は家族のために自分の人生を捨てていると思いながら終わりのない毎日を暮らしていた。見せるのが恥ずかしくて、恋した相手にも紹介できないような家族。ギルバートはそんな自分を、何よりもみっともないと思っていた。
人生をより複雑により素晴らしくするのは、そのみっともない家族をギルバートが愛してしまっていること。そして、その自分をみっともないと思っているギルバートを愛している誰かがいること。自分を犠牲にして尽くしても、弟アーニーしか見えずアーニーしか愛さないと思っていた母が自分を愛していたことをギルバートは知る。「お前は私の騎士よ」「きらきらと輝いているわ」。泣きました。

人生は悲劇で喜劇です。どんな名作よりもうまくできている。父親が首を吊り、母親が体重で傾けたグレイプ家の家のように、絶妙なバランスで成り立っている。その美しさは奇跡のようでなく奇跡そのもの。
この映画は、日陰を生きてきた者、日陰を生きざるを得なかった者への讃歌です。弱者であったからこそ見える世界の美しさがある。いや、そうではなくて、弱者は世界を美しく見る方法を知っている。
太陽に忘れ去られていると思いながら暮らすうち、いつしか太陽の存在すら忘れていたギルバートにも、太陽の日差しは変わらず射していた。ただ、もっと暗い影の中に居たから見えなかっただけで。その証拠に神様は、ギルバートにアーニーからの愛を、ママからの愛を、なによりベッキーという存在を遣わせてくれた。

この映画を初めて見たとき、私は12歳か13歳でした。ジョニー・デップレオナルド・ディカプリオ見たさに見ただけの映画。見た目に美しいものがいちばん美しいと感じる思春期、トランペットの練習と、自分の歯の白さのことだけを考えて生きているギルバートの妹エレンよりも年下です。この映画のよさがわかるはずもなかった。今ならアーニーが悲劇ではなく奇跡と呼ばれるわけがわかります。確かにアーニーは、愛らしい「サンシャイン」。

忘れた頃にまた、偶然見たい。自分の人生が進んだことをこの映画ではかれるから。
そう思えた大切な作品でした。