空飛び猫の戯れ言

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マイケル・ジャクソンを生きること。

752b4368.jpgマイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?

今のこの時期でかなり待った感があり、やっときのうAmazonから届きました。526ページあるこの本を1日で読破。

読み終えた今言えること。
マイケルが少年にいたずらをした可能性は限りなく低い「であろう」と「今」「私は思っている」。
マイケルはいわゆるマイケルジャクソン裁判で、陪審員12人全員一致で、14の罪状すべてで無罪になっていた。
それでも。
私はマイケルは小児性愛者で、いたずらもあったのだろうと思っていた。
裁判に勝ったのは、お金の力だろうと思っていた。

どうしてよく調べもせずにそう思いこんだのか。
例えばマイケルが世界中の子供達のためにしていたこと。ここまでとは思わなかった。自分の時間を、お金を、最も注目される新曲という仕事の場を、すべてを割いてマイケルは子供のために動いていたという事実があった。
マイケルを訴えた一家は、お金のためなら何でもするという評判の一家で、有名人相手の訴訟や性的虐待の訴訟で何度も和解金を受け取っていた事実があった。

メディアが悪いのはいつものことで、ただ私が思っていたことは、それを見抜けなかった自分への口惜しさ。
そしてマイケルへの、罪悪感。

今のこの、マイケルブーム。私はそのエネルギーを生む背後に、生前のマイケルへの無礼への罪悪感があるように感じた。
マイケルの仕事の価値を純粋に見ようとして、人々は改めて、もしくは初めて、彼の偉大さを感じた。でも、生前から彼の仕事は偉大であり続けたのだ。なのになぜ彼の仕事は、作品は後年「純粋に作品としての価値だけで」注目されなかったのだろう?
マイケルへの罪悪感がもしあるならば、それを解決する方法は。マイケルの業績を褒めそやすことじゃない、マイケルに謝ることだと私は感じた。

確かにマイケルは、整形手術を繰り返した。理解できない金銭感覚を持っていた。
しかし。
それとマイケルの肌が白斑という病気に侵されていたということは一緒にしてはいけないことだった。
(白斑については、私は画像を見るにつけその思いを強めた。肌の色を抜くとしたら、こんな汚く不規則な抜き方はしないはずだ。白斑に自分の意志でかかることはできるのか?医学的に肌を白くする方法があるのか?それはまだ、疑問の余地が残るところだけれど。)
私は狂信的で宗教のように感じるマイケルのファンが苦手だったけれど、それと彼らの主張が真実かもしれない可能性は一緒にしてはいけないことだった。
マイケルが裁判で無実だったということは一緒にしてはいけないことだった。
ごっちゃにしては、いけないことだったのに。
どうして生前に、このことを知ろうとしなかったのか?考えようとしなかったのか?
そして今も、知られずに考えられずにいるのだろうか。

私はマイケルに謝りたい。マイケル、ごめんなさい。
もしも死んだあと、会えるなら、マイケルにじかに謝りたい。私はとんでもなくひどいことをした。あなたを誤解し、笑いの種にした。その「たかがではない」1票の重さを、被害者として知っているはずだったのに。

今思うことは、これからの私は真実を見抜けるようになっていきたいということ。なぜならマイケルは死んでしまったけれど、現在進行形でこの「誤解」「悪意による事実の曲解」という問題は存在しているはずだからだ。たくさんの被害者が今も生きていて、騒動の最中にいる。
そして、やはり真実は当事者にしかわからないということ。
ここでもし私が、マイケルは無実「だ」と断言してしまったら、それは自分の失敗から何も学んでいないことになる。私は自分の調べたことからこう考えるが、その意見は断言できないし今後も変わるかもしれない。その姿勢が重要なことなのだ。

マイケルは自分の金銭や名声に目がくらむ人々に、子供への愛から漬け込まれ、嘘で固められ、彼らのために心を砕いたのにも関わらず悪意を向けられた。最悪の形での裏切り。
子供に訴えられる。それがもともと人間不信気味だったマイケルの心を粉々にしただろう。

マイケルは小児性愛だ、という疑惑、この裁判がマイケルに与えた破壊的なイメージへのダメージ。それは今でも、取り返されていない。

この本の読みどころは、29章の「バシールとのインタビュー カットシーン」にあると言っても過言ではないと思う。
そもそもマイケルが「マイケル・ジャクソンの真実」という番組の中で自分の私生活を明かし、その中で「ネバーランドに遊びに来る子供たちと一緒のベッドで寝る」と言った、その発言からこの騒動は巻きあがり、大きくなった。
この番組を作ったバシールというイギリス人ジャーナリストは、マイケルの前でメディアの不誠実さを批判し、マイケルの長年の夢だった「世界子供の日」実現への話題をちらつかせ、子供のためにというキーワードを多用しマイケルに心を開かせた。しかし彼はマイケルに言ったこととは180度違う悪意に満ちた編集をし、この番組で出世し、検察側の証言台に立った。
この章ではマイケルが本当に放送してほしかったであろう、しかし実際は根こそぎカットされたマイケルの本音が、マイケルの人となりがありのまま描き出されている。
マイケルは非常にだまされやすくて、まるで子供のようだ、とこの本を読んだ人は誰でも思うと思う。
マイケルは自分への世間の好奇の目を把握していた。マイケルはそれに傷ついていた。人々の意見は剣よりも強くなりうる、とマイケルは言っていた。
マイケルは普通に憧れ、普通にコンプレックスを抱いていた。
なんてことだろう。マイケルのホテルを取り巻く人々、マイケルのコンサート会場を埋め尽くす人々、マイケルのCDを持っている数千万人の人々みんなが持っている普通の生活に、そのすべての人が持っていないものを持っていたマイケルが憧れていたのだ。
子供達への尽きない愛を、メディアへの不信感を、まさに自分を今それを使って裏切ろうとしている人に心を開き、話しているマイケルが切なかった。
それが初めて上映されたのがマイケルの裁判中の法廷だということが切なかった。
残酷なほど皮肉だった。

私はただただ、マイケルの一生とは、マイケル・ジャクソンを生きるとはどういうものだったのか考えた。
この本を読み、YouTubeでマイケルのホームビデオの動画を見た後、Michael Jackson - Smile という動画を見てみてください。
あなたのなかのマイケル・ジャクソンが、昨日までとは全く違った人になると思います。