空飛び猫の戯れ言

お菓子作り、メンタル闘病記、お気に入り動画など。空飛び猫の、ありのままの日記です。

ただそれだけのことが。

人は美意識に習って行動すると思う。自身の行いを決めると思う。

それは常に変わっていく。
なにをかっこいいとするか、なにをかっこ悪いとするか。

私はひげを伸ばして丸い眼鏡をかけ、反戦歌を歌いたいわけでもない。
大学の構内に警察を呼び入れ、闘争したいわけでもない。
ネットの有名人になりたいわけでも、芸能人と知り合いたいわけでもない。
自分の主張を本にまとめ、それによって自己評価を上げたいわけでもない。
ひとつの既存の宗教におぼれ、その布教に生涯をさくなんて嫌でたまらない。

マイノリティを差別しないで!と訴える人がその主張の中で、自分の属する少数派の権利の正当性を訴えたいがあまり別のマイノリティを差別している。

私は有名人や芸能人もある種のマイノリティだと感じてきた。
少しでも、身近な弱い立場の人、自分自身の努力ではそれを変えられない立場の人の力になりたくて、
少なくとも、彼らからSOSが発せられたときに動けるような自分になりたくて、
なによりも、自分が自分の足だけで立ちたくて、
大学に入り、少しばかり法を勉強した。

わかったのは、よく気付く人の方が損だということ。
「見て見ぬふり」のコツを覚えられない人がぼろぼろになっていく。

私はただ、
喜んでいたい。
笑顔でいたい。
その幸せを、たまには誰かと半分こしたい。
喜びとか、笑顔とか、幸せという言葉が、
これだけ長い前置きをしないと誤解されてしまう。
それほど、手垢にまみれた言葉になってしまっている。

日本では神の話ができない。
それは神が宗教のイメージに汚された言葉になってしまっているから。
学問で創造主の話は禁句。
それはかつて学問が宗教にこてんぱんに叩きのめされた痛い思い出があるから。

だけど、私は思う。
誰だって子供のように受け入れられたり、体に触れられたり、体調を思いやられたり、朝ふっと小さなプレゼントを贈られたりされたいはず。
学者だって、本当はサムシング・グレートの話をしたいはず。

それをするだけで、嫌われてしまう。浮いてしまう。
みんなわかっていながら、心のどこかではそう感じ、ぼんやり考えていながらも、
無いことにして暮らすしかない。
和の中で自分を守るために。

それを体で実感しても、やっぱり私にはやめられない。
世の中を斜めに見て、断定的に否定して、人より一回り、一段上な気がして、そんな自分をかっこいいと思ってもう暮らしたくない。

私は人が好きで、笑っていたいし、今向き合っている相手の笑顔が見たい。
神々しくて偉大で英知な何かの存在を感じたい。
ひとりでも平気で笑っていること。
それはとてつもなくばかでかい戦いでもあると思っている。