アンが教えてくれたこと、2020。
赤毛のアン、大好き!
最近、赤毛のアンのDVDを見返した。
大好きで大好きで、覚えるくらい見た作品。
いつも通り、アンの魅力には感服したし、マシューとアンの関係、最も求め合った者達(マシューは大の苦手で近付くことさえ出来なかった女の子、アンは父性)の奇跡の出会い、には涙した。
アンがあまりに魅力的なキャラクターなので、アンと関わる全ての人との関係が素晴らしいものに描かれている。
アンとダイアナ。アンとギルバート。
でも今回私は、初めての経験をした。
マリラに感情移入したのだ。
私も歳をとったのかな…今まではアン一択だったのに。
それで感じたことがあった。
当たり前と、常識を疑うこと
人は生まれた国や、生まれた時代の当たり前、常識からは逃れられないのだと言うこと。
登場するすべての女性が、キリスト教を信じることこそが生きがいであり、生きる指針であると信じ切っているし、
髪を結う年齢、お酒を飲む年齢など、女性としてはしたないことをしてはおしまいだと思い込んでいる。例えば勉強に家事よりも打ち込むこと、二人三脚レースに出ること、お酒を作ることなども。
女性には参政権もなかった時代の、国のお話だ。
でもこれは、決して他人事の笑い話ではない。
生まれた国や、時代の当たり前から逃れられない。
これは日本に生まれ、2020年を生きる我々にも当然当てはまる。
私達も、きっといつかの時代の、または別の国に住む人から見たら、吹き出すぐらい非常識なことを信じ、しているのだ。
そしてそれから逃れられない、なぜなら気付いていない、自覚すら出来ないことだから。
あの、イマジネーション、想像力の固まりだったアンでさえ、ダイアナの母やマリラの価値観には逆らえなかった。
アンですら、気付けなかったのかもしれない。
教会だけが生きる指標を教えてくれる場所ではないこと。
女性にも学ぶ権利、政治に参加する権利、髪型を好きな歳に好きな形にする権利、お酒を病気以外の時にも飲む権利のある時代が来ることに。
「〇を指針に生きていく。」
それでは、と当然なるわけだが、
何を指針に生きていけばいいのか?
私は、この面において、時代はともかく日本という国に生まれられた幸運にひどく感謝している。
誠、公、義、仁などを大切にするお国柄だからだ。
もっとわかりやすい、わかりにくい、かも知れないが、言い方を広げたり今風にすれば、
愛だと思う。
良心の咎めることはしない、
動機を大切にする、
愛を表現することに労力を惜しまない。
愛に従って生きれば、アンのように100年後の異国の一女性からも、一部は笑われたとしても、
尊敬される、何より
愛される人として生きられると、
私は大真面目に今日も愛を信じている。
補足
でも、村八分だけは日本の嫌な部分、大嫌いな部分。
アンも孤児いじめなど、そんな目に遭ったので日本に限らず集団の嫌な部分、かも知れないが。